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料理にワインに競馬に文学。F氏のフランス滞在期


by hiramette

インディゴブルーのスニーカー


重賞など大きなレースになると、馬を連れてパドックを周回する厩務員さんは、スーツを着てネクタイを締めることが多くなります。勝った馬には記念撮影があるので、それを期待していい格好をするらしいのです。見ているパドックの観客のあいだでは、おい、あいついい服着てるから、あそこの厩舎は自信があるんちゃうか、などと様々な憶測が飛び交います。中には勝負服と同じ色のネクタイをしてコーディネートする馬主さんや、調教師さん、それに厩務員さんもいるほどです。

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僕が競馬場に行くときは、凱旋門賞とか、ディアーヌやジョッケクラブでもない限りスーツは着ません。けれど、青いスニーカーを履いていくことなら何回もありました。それは決まって僕の大好きな馬、インディゴ・ブルーを応援しに行く日でした。今日はそんな僕と彼、それに青いスニーカーのおはなし。

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僕がインディゴ・ブルーに会ったのは、2007年の10月。メゾンラフィットの調教コースでした。その日は本当に肌寒く、調教は朝6時ごろから始まるので、ホッカイロを持ってないと体の先から冷えてきます。当時僕は肉体的にも精神的にもかなり疲れていました。ジャンポールの調教を見に来たのも、馬を見たいというよりは、パリにいるのが嫌で、逃げ出したくてメゾンラフィットに来たのでした。

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調教用の、障害コースの外側の平地を走っている馬群の先頭を、栗毛で艶のある大きい馬が走っていました。調教師のジャン・ポールに聞きました。

「あの馬の名前は?」

「インディゴ・ブルー。まだ2歳の馬だよ。こないだパリッシュさんが持ったきたんだ」

3歳の馬と比べても大きいぐらいだったので、驚きました。腰から尻にかけて、たくましく盛り上がっていて、すばらしい馬体でした。

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実はインディゴ・ブルーは最初イギリスで調教されていて、向こうの2歳の新馬戦に出る予定だったのですが、ゲート付近で暴れて逃げたそうです。イギリス人馬主のパリッシュさんは、将来的に障害の馬に育てようと思って、ジャンポールのいるフランスにこの牡馬をつれてきました。とはいってもこの子のお父さんはNight shiftという馬で、スプリンター系。馬体も整ってきているし、レースに出られそうだからとりあえず緒戦は平地の1600メートルで行こうということになりました。

2007年11月1日、肌寒いサンクルーの新馬戦で彼はデビューしました。出走10頭中人気薄の単勝15倍。フランスの競馬はよく馬主や調教師、それに騎手を基準にして買われるので、障害ではトップの調教師のジャンポールが平地で出しても、人気にならないことが多いのです。騎手も若手の、シルヴァン・ルイ騎手。おそらくはみんな障害に向けての調教代わりのレースとしか思ってなかったのかもしれませんでした。

ところがインディゴは、2,3番手から最後の直線で先頭に立ち、後ろから追ってくる一頭に並ばれかけてもしつこく突き放し、叩き合いの末ハナ差で勝ったのでした。しかも2着は名調教師アンドレ・ファーブル師の管理馬で、後にG2を制するデモクラットです。皆が唖然とする中、僕は陰鬱な気持ちを吹き飛ばして、飛び上がって喜んだのを覚えています。

こうして僕は、インディゴの大ファンになりました。彼が僕を元気づけてくれたような気がしたからです。彼に会うためにしばしばジャンポール宅を訪れました。インディゴは、いつもおとなしく、のそっとしていて、レースのときのような力強さはありません。学校のない日に寝てばかりいる、体の大きな子供のようでした。

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緒戦を勝利で飾ったことをきっかけに、ジャンポールはインディゴを平地のエリート路線に送り込むことにし、11月末の2歳のリステッドレース(オープン特別クラス)に登録しました。そのときから僕はゲンを担いで、インディゴ・ブルーがレースに出るときは、何か青い色のものを身につけていこうと決めました。いろいろ探した挙句、インディゴ(藍色)ではないけど、青いスニーカーがいいと思い、それを履いて行くことにしました。

ところが、11月24日、インディゴはレース中に蹄鉄がとれて、血を流して帰ってきました。結果は4着でした。でも、馬のせいではなかったんだから、僕はじっくり翌年を待つことにしました。

2008年3月、インディゴ・ブルーはBレース(日本で言う500~1000万条件)からスタートし、首差の2着。上々の滑り出しでした。ジャンポールはまた、オープン特別のOMNIUM II賞に登録しました。この賞は、後にロンシャンのG3フォンテーヌブロー賞に通じるオープンで、その先にはG1プール・エッセイ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)も待っています。僕は自分がインディゴの馬主であるような錯覚を覚え、夢の舞台であるG1で走っているインディゴ・ブルーの姿を毎日想像しました。

ところが現実はそう甘くはありませんでした。結果は5着。同世代のエリートを相手になすすべなく、鞍上のティエリー・チュリエーズ騎手は唇を噛みました。彼はジャンポールのところで見習い騎手をしていたので、直接の弟子です。でも、ジャンポールは特に彼を責めるでもなく、黙って宙を見上げました。競馬場に来るときにはスプリンターのような足取りだったスニーカーを履いた僕の足取りは、帰りになるとレース後の疲れきった馬のように重くだるい足取りになりました。こうして僕のスニーカーは、少しずつ磨り減っていきました。

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それでも、僕はインディゴブルーを応援し続けました。恩返ししたいような気持ちで彼が出走する競馬場に毎回足を運びました。

2008年4月14日。月曜日。G1戦線から離れたインディゴ・ブルーが、地元メゾンラフィット競馬場のターフにいました。僕はその日カルチエ・ラタンの高等師範学校であった学会のあと、急いでRERに乗りメゾンラフィットへ向かいました。駅に着くとバスがなく、仕方なしに走りましたが、大雨が降ってきて、僕はびしょ濡れになりました。第3レースに何とか間に合って、パドックに行くと、ジャンポールが僕に気付いて、嬉しそうに微笑みました。

「おお、来てくれたのか」

「はい、インディゴ・ブルーの応援に」

1400メートルの直線。鞍上はチュリエーズ騎手。僕らは競馬場内のテレビの前に陣取りました。フランスの競馬場では、週末の重賞のときだけ屋外にスクリーンを設置するので、普通の日は双眼鏡でレースを見るか、テレビ中継を見るかしかありません。

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« Allez, c’est parti la troisième course, prix Djebel, 1400m à parcourir… »

競馬実況中継の低く、冷静な声が競馬場に響き渡ります。ジャンポールはテレビにかじりついて独り言を言います。

「よし、いいスタートだ、うん、そう、そこ、いいぞ、そのまま」

その言葉と共に、彼の体が揺れます。ジャンポールは元障害のジョッキー。自分がインディゴ・ブルーに乗っているかのように、一完歩ごとに、体全体でリズムを取ります。どどっ、どどっ、どどっ、どどっ。残り500メートルを切ったとき、ジャンポールが真っ赤な顔をして、叫びました。

« Va-t’en ! Va-t’en ! »
「出ろ。今だ、出ていけ!」

馬の背の上にいるような前傾姿勢で、全身でリズムをどどっ、どどっと取りながら右腕を大きく振り下ろします。

« Tu vas gagner, tu vas gagner ! »
「お前が勝つんだ、勝つんだ!」

複数の馬体は重なり合わさるかのように、ゴール板を駆け抜けました。クビ、アタマ差の3着。ジャンポールは悔しさを隠し切れずに、歯を噛み締め両手の拳を強く握り締めました。

その次の日から僕はひどい熱を出して、3日ほど寝込みました。ひどい雨に打たれたからなのかもしれません。

その後、インディゴ・ブルーはフランス2000ギニーの5月11日、レースに出ました。もちろんG1ではなく、第1レースのDレース(500万条件のようなもの)です。好走しましたが、ゴール前で後ろの牝馬に差され、2着に敗れました。そして、その後腰を痛めてしばらくレースに出られなくなりました。

それから、僕の青いスニーカーには穴が開きました。もちろんインディゴ・ブルーを応援する日だけ履いていたわけではなかったので、パリの石畳の道に傷つけられてしまっていました。雨が降ってきて、靴の中が冷たいので、靴の裏を見ると横に擦り切れた跡が見えました。僕はこのスニーカーを履くのを止めました。

6月のセリに出されたり、秋に虚勢手術をしたり、様々な紆余曲折がありました。そして久しぶりに冬に会いに行ったとき、艶もなくなり、元気のなさそうな顔をしたインディゴ・ブルーに僕は再開しました。せん馬になったと言うことは、子供を作れないと言うこと。つまり、種馬になれない以上残りの命は走るしかないのです。雨に濡れた岩のような瑞々しかった尻が、植物の育たない乾燥地帯の乾いたもろい岩のようになっていました。少し痩せた彼の体を見て、僕はことばを失いました。

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ジャンポールは年末年始に南仏のカーニュ・シュール・メールで行われる障害レースに向けてインディゴを調教していました。ところが結果は落馬、落馬、四着。今年の春にもう一度、平地に戻されました。

肌寒い3月のサンクルーのパドックで、インディゴブルーの背中に跨っていたのはオリビエでした。彼は僕の方を見るとにこやかに挨拶しました。その馬は僕にとって特別な馬なんだ。勝ってくれ、オリビエ。頭の中で用意していた言葉が詰まって、何も言えませんでした。ありがたいことに、彼はすばらしい競馬で2着になりましたが、その後は成績が振るわず、売りに出され、馬主が代わり、また障害に戻されました。

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今年の6月16日、インディゴ・ブルーは障害専門のオトゥイユ競馬場にいました。3600メートルハードル。僕は国立図書館から抜け出して、携帯でグリーンチャンネル、エキディアを見ていました。10以上のハードルをスプリンターの子が越えられるのだろうか。負けてもいいから、とにかく致命的な怪我だけはしないで欲しい。お願いだから、無事に走ってくれ、インディゴ。一つ一つの障害を越えるたびに、僕はそう祈りました。

すると、第4コーナーを曲がったインディゴ・ブルーは、先頭に立つと、あのサンクルーの新馬戦のときの時のようなしぶとい足で、他馬に並びかけられても、決して前に行かせようとしません。騎手の鞭が怖いのか、単に他の馬に前に行かれるのが嫌なのか、それともレースで勝たなければならないと思っていたのかはわかりません。けれどもインディゴは初戦と同じような競馬で、オトゥイユのゴール板を1着で駆け抜けたのでした。首差でした。

今年の秋から、また彼の障害馬としての生活がスタートします。僕は、彼が行く場所ならどこでもいくと思います。インディゴブルーのスニーカーは、もう破れてしまったけど、まだ捨てないでとってあります。

がんばれ、インディゴブルー。そして、どうか無事に走り続けてください。

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by hiramette | 2009-07-20 07:30 | 競馬